なるみと読む徒然草 第百四十段
令和8年11月7日(土曜日)曇り
午前7時24分〜8時28分
フシハラ円座
― 物質と時間、そして情報化 ―
生けらんうちにぞ譲るべき
一、原文
身死して財残る事は、智者のせざる処なり。
よからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。
こちたく多かる、まして口惜し。
「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。
後は誰にと志す物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。
朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。
二、現代語訳
自分が死んだ後に財産を残すことは、賢い人のすることではない。
つまらない物を蓄えて残すのも見苦しいし、立派な物であれば、それほど心を奪われていたのかと思われて情けない。
まして、うんざりするほど多くの物を残すのは、なおさら残念なことである。
「自分こそがもらうのだ」などと言う人々が現れ、死後に財産を争うのも見苦しい。
誰かに譲ろうと思う物があるなら、生きているうちに譲るべきである。
日々の生活になくては困る物は仕方がないが、それ以外は何も持たずにいたいものである。
三、フシハラ円座考察
生活と物欲
今日の兼好さんは、財物への執着を戒めている。
しかし、なぜ人間に執着が生じるのか、その根源までは論じていない。
ここから今日の円座が始まった。
私たちは物質に満ちた地球に生まれ、物質によって生命を維持している。
生きるために物を所有することは、ごく自然なことである。
兼好さんも、生活に必要な物を持つことまで否定してはいない。
問題は所有そのものではなく、そこに執着する人間の心なのであろう。
ただ、執着を戒めることと、執着を生み出す人間のありようを知ることとは別である。
頭で考えた理論と、信仰を通して得られる智慧との間にも、同じ違いがあるように思う。
物を持たないことが悟りなのではない。
物に囲まれていても囚われず、日々の暮らしを喜んで生きる。
そこに信仰の智慧があるのではないだろうか。
金を残す、名を残す、人を残す
金を残す。
名を残す。
人を残す。
この三つのうち、私が残したいのは、もちろん人である。
伏原窯には、長年ともに仕事をしてくれている森本さんがいる。
しかし、焼き物の仕事は一人で続けていくには難しい。
だからといって、私の技術や作風をそのまま誰かに継がせたいわけではない。
私たちの仕事は、ここ泉州に文化を咲かせることである。
私は焼き物を通して、その一端を担っているにすぎない。
この土地に文化の土壌を耕し、そこから育つ人々が、それぞれの個性で新しい世界を作っていけばよい。
焼き物でなくてもよい。
書でも、絵でも、まったく違う仕事でもよい。
その人自身の世界が、ここからなるみゆく。
人を残すとは、そういうことではないだろうか。
物質と時間、そして情報化
兼好さんの生きた七百年前と現代とでは、物を取り巻く環境が大きく違っている。
当時も知識や情報には価値があった。
けれども、現代のように一人ひとりが情報を発信し、社会的な価値を生み出すことは難しかった。
今は違う。
私のような地方の茶碗屋でさえ、毎日の制作や暮らし、考えていることを社会へ発信できる。
しかも、AIの力を借りて情報を整理し、古典を学び、日々の哲学を鍛えることまでできるようになった。
伏原窯では、毎日かなりのペースでSNSに発信している。
最近、注文が増えてきた。
それは、新しい人脈を求めて生まれた注文ではない。
長い年月をかけてお付き合いしてきた方々の動きの中から、新しい注文が生まれているのである。
山谷前CEOとのご縁も、その一つである。
「月照桜」が来年の大阪商工会の新年会で、また誰かの手に渡るかもしれない。
一つの器が、人と人を結び、新しい縁を生み出していく。
そこには、物としての器だけでなく、作り手の思想や仕事への信用も働いているのだろう。
情報化によって、そのつながりが新しい姿を見せ始めている。
ただし、情報が増えれば社会が豊かになるわけではない。
AIの発達によって、中身の伴わない情報も大量に生み出される。
だからこそ、実際の暮らしと仕事に根ざした言葉が、これからますます大切になると思う。
私たちには毎日の具体がある。
土を練り、轆轤を挽き、絵付けをし、窯を焚く。
その仕事から生まれる言葉を、社会に届けていく。
物を作ることと、情報を生み出すことが、一つになり始めている。
創造の時間と地球の時間
今、世界は驚くほどの速度で変化している。
少しずつというより、加速度的に速まっているように実感する。
しかし、私たちは地球の時間を生きている。
朝が来て、夜が来る。
季節が巡り、土が乾き、窯が冷める。
人は生まれ、育ち、老いていく。
一方、人間には創造の時間がある。
心は時空を超え、新しい世界を生み出していく。
七百年前の兼好さんと令和の茶碗屋が、今朝こうして一つの円座に座ることもできる。
創造の時間と地球の時間を生きる。
その融合を楽しみながら、暮らしを立てる。
これが、フシハラ円座が提唱する生き方である。
特別な世界を求めて日常から離れるのではない。
毎日の暮らしの中に創造があり、創造の中に暮らしがある。
普通が一番。
その普通の暮らしが、情報化によって新しい可能性を持ち始めている。
生けらんうちにぞ譲るべき
今日の第百四十段の核心は、ここにある。
「生けらんうちにぞ譲るべき。」
死後に財物を残すことを考えるより、生きている今、人に渡す。
兼好さんは、財物への執着を戒めて、この言葉を残した。
私たちは、そこからさらに現代の暮らしを考えた。
物質の地球に生きる以上、物を所有することは必要である。
しかし、それを自分だけのものとして囲い込むのではなく、人と分かち合う。
そこには愛がある。
家族があり、地域があり、社会を作る原動力が生まれる。
ただし、この理想を実際の暮らしにするには、大きなイノベーションが必要である。
情報化とAIは、その可能性を開き始めている。
私たちが長年培ってきた技術、経験、智慧、そして信用を、生きている今、人々と分かち合う。
受け取った人は、それを自分の個性で育て、また次の人へ渡していく。
お金のチェーンから、信用のチェーンへ。
物を残すためではなく、人が育ち、文化がなるみゆくために、今日も仕事をする。
これこそ、令和の茶碗屋が兼好さんの言葉からいただいた、生きる指針である。
四、結び ― なるみゆく世界
七百年前、兼好さんは財物への執着を戒めた。
令和の私たちは、その言葉を出発点に、物質と時間、そして情報化の時代を考えた。
時代は変わる。
物の価値も変わる。
人と人とのつながり方も変わる。
しかし、人が人を思い、共に生きる喜びを求める心は、今も変わらない。
大切なのは、死後に何を残すかではない。
生きている今、何を分かち合い、何を創造するかである。
一つの茶碗を作り、人に渡す。
そこから新しい縁が生まれ、信用が育ち、文化が咲いていく。
その土壌を、今日も耕している。
残すために生きるのではなく、分かち合いながら共に生きる。
変わる変わる。
もの皆、なるみゆく。
今日もまた、泉州の小さな工房から、新しい一日が始まる。
普通が一番。
令和8年11月7日
午前8時28分 円座終了
水間焼 伏原窯
























