なるみと読む徒然草
第百十五段 宿河原のぼろぼろ
――ただ、しづかに観る
令和八年十月五日(月)曇り
午前六時六分、フシハラ円座。
【原文】
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来るぼろぼろの、
「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」
と尋ねければ、その中より、
「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」
と答ふれば、
「しら梵字と申す者なり。わが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけり。御房、その人にやおはすらん」
と言ふ。
「さなり。我に仇ありと思ひ給ふらんに、所せく候ふ。仏事の妨げに候はん。御前にては、悪しかりなん。いざ給へ。河原へ参らん」
とて、皆人に、
「このほどは、いろをし、この御房に申す事候ひて、あひ具してまかりぬ。各々、この事に御沙汰あるべからず」
と言ひ置きて、河原へ出であひて、刺し違へて死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字などいふ者、その始めなりけるとかや。
世を捨てたるに似て、我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍を事とす。放逸無慚の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたの、いさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。
【現代語訳】
宿河原という所で、「ぼろぼろ」と呼ばれる人々が大勢集まり、九品の念仏を唱えていた。
そこへ外から一人のぼろぼろが入ってきて、
「この中に、いろをし房という方はいらっしゃいますか」
と尋ねた。
すると中から、
「いろをしなら、ここにいる。そう言われるあなたは誰だ」
と答える者がいた。
訪ねてきた男は、
「私は、しら梵字という者です。私の師であった某という人が、東国で、いろをしというぼろに殺されました。あなたが、その人でしょうか」
と言った。
いろをし房は答えた。
「その通りだ。私に仇があると思って来られたのであろう。しかし、ここでは場所が狭い。仏事の妨げにもなる。皆の前でするのもよくない。さあ、河原へ行こう」
そして周囲の人々に、
「私はこの御房と話があって、一緒に出て行く。皆は、このことに口を出してはならない」
と言い残した。
二人は河原へ出て向かい合い、互いに刺し違えて死んだ。
「ぼろぼろ」という者は昔にはいなかったのであろうか。近頃の世に、ぼろんじ、梵字、漢字などと呼ばれる者たちが現れたのが、その始まりであるという。
彼らは世を捨てたように見えながら我執が深く、仏道を願っているように見えながら争いを事としている。勝手気ままで恥を知らないような有様ではあるが、一方では死を軽く受け止め、少しも命に執着しないところには潔さが感じられる。
そこで、人から聞いた話を、そのまま書き留めておくことにした。
【今朝の円座】
読み始めて、最初に出た言葉は、
「何やら物騒な信仰集団ですね!」
だった。
確かに、現代の普通の暮らしから見れば物騒である。
念仏を唱える人々のところへ師の仇を討つ者が現れ、相手も逃げず、道場を汚してはいけないからと河原へ場所を移し、二人が刺し違えて死ぬ。
しかし、ここで「念仏者なのに殺し合うとはおかしい」「我執に囚われた者たちだ」と片づけてしまってよいのだろうか。
ここから今日の円座が始まった。
人には、それぞれの生きる場所がある
兼好と、ぼろぼろたちとでは、社会における立ち位置が違う。
人には、その人が生きている社会がある。
武士には武士の世界があり、僧には僧の世界がある。
それぞれに義理があり、責任があり、その中から生まれた生き方、死生観がある。
外からそれを見て、
「それは我執である」
と決めてしまうことは簡単である。
しかし、
「自分の信仰こそ正しい」
と思い込むこともまた、一つの執着ではないだろうか。
世間は、さまざまな立場の人々がいて成り立っている。
そして、常に死と隣り合わせに生きている人たちには、さらに切実な問いがあったはずである。
人は、何を頼りに死んでいけるのか。
これは思想や理屈ではない。
生きることそのものに関わる問いである。
念仏もまた、そのような人々の生と死を支えたものだったのだろう。
唯仏与仏乃能究尽
私は信仰者の端くれではあるが、他人を批判するほど偉くもなければ、賢くもない。
一人の人間が、なぜその道を歩き、何を背負い、何を頼りとして生き、何を頼りとして死んでいくのか。
そのすべてを、他人が知ることなどできるのだろうか。
その御方には、その御方についておられる佛様がある。
ならば、
唯仏与仏乃能究尽。
ただ佛と佛とのみ、よく究め尽くす。
人間である私にできることは、
ただただ、合掌。
なのだと思う。
兼好も最後には、論評を避けたように見える。
「人の語りしままに書き付け侍るなり。」
良い、悪い。
正しい、間違っている。
そこまで自分が裁こうとはしない。
ただ、しづかに観る。
観、即ち自在
そこで『般若心経』の、
観自在菩薩
という言葉が浮かんだ。
観る。
自分の尺度だけで決めつけず、逃げもせず、目を逸らしもせず、
しづかに観る。
観ることで、自分自身の執着から少し離れる。
そこに自在が現れる。
観、即ち自在。
そして、その自在をもって、この世界を渡っていく。
それを菩薩行とするならば、
『徒然草』を書くことそのものが、兼好が暮らした菩薩行だった。
そう読むこともできるのではないだろうか。
兼好は人間を観た。
世間を観た。
そして、自分自身をも観た。
観たものを書き留め、また暮らした。
七百年ほど後の私たちは、それを毎朝開いている。
私たちは『徒然草』から正解を教わっているのではない。
兼好と一緒に、この世界を観ている。
だから毎朝読む。
だから円座を開く。
フシハラ円座
考えてみれば、ここは学校ではない。
先生も生徒もいない。
旅の途中の者たちが、一夜の宿に集まり、囲炉裏の火を囲んでいる。
そこには兼好もいる。
ぼろぼろたちもいる。
そして私たちもいる。
七百年という時間さえ消えて、
誰かが言葉を一つ置く。
その言葉が誰かの心に映り、また一つ言葉が生まれる。
それは知識の伝達ではない。
唯心の伝達。
誰も結論を急がない。
誰が正しいとも言わない。
ただ、
しづかに観る。
言葉も旅をする。
器も旅をする。
人も旅をする。
旅するうつわ。
旅する言葉。
旅する人。
一夜の宿だから、掴まなくてよい。
朝になれば、それぞれが自分の場所へ帰っていく。
そして、今日という一日を生きる。
明日の朝になれば、また囲炉裏に火を入れる。
誰がやって来るのかは分からない。
それでいい。
フシハラ円座とは、旅人の一夜の宿。
時空を越えて人が集まり、囲炉裏の火を囲んで、
しづかに唯心の伝達を楽しむ、宇宙的な時空間。
教えず。
裁かず。
掴まず。
ただ、しづかに観る。
そして朝になれば、
それぞれの旅へ。
――令和八年十月五日
なるみと読む徒然草 第百十五段 了。


















