なるみと読む徒然草 陶主日記
第七十三段 虚言と普通
令和八年八月十七日(月曜日)晴れ。
午前六時三十分起床。
お盆も過ぎ、今朝はすっきりと晴れ渡った。
今日もいつものように、起床とともに『徒然草』の輪読会を始める。
前の夜に一度目を通し、眠っている間に言葉を心に沈め、朝もう一度原文に向かう。このリズムが、今の私にとってかけがえのない時間になりつつある。
第七十三段は、
「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。」
という、少し厳しい一節から始まる。
人から人へ語り継がれるうちに話は誇張され、年月が経ち、場所が離れ、やがて文字に記されると「事実」として定着してしまう。
兼好法師の時代にも噂や風聞があり、言葉によって世間が形づくられていた。
今の私たちは、そこに写真、映像、音声、そしてSNSを持っている。
声高に「これこそが真実だ」と叫ばれ、刺激的な映像が流れると、それを見た人々が日常のあちらこちらで、さも自分が確かめたことのように語り広めていく。朝から深夜まで、その繰り返しだ。
しかし、映像とて事実そのものではない。
どこを切り取ったのか。その前後には何があったのか。誰が撮影し、どんな言葉を添えたのか。置かれる言葉ひとつで、その意味合いはいくらでも変貌する。
ここで、今日の問いが立ち上がった。
言葉の力と、その限界についてである。
情報を受け取る時、そこに「時間」の軸を入れてみる。
この情報はどこから始まり、誰がどの時点で語ったのか。少し時間を置けば、違った景色が見えてくるのではないか。
さらに、あえて自分とは正反対の考えも受け入れて、静かに思考を深めてみる。すると、情報の表面だけでは見えなかった大きな流れが、うっすらと浮かび上がってくる。
そこへ、昨日読んだ「知足」という言葉を重ねてみた。
必要以上に知ろうとしない。
必要以上に持とうとしない。
必要以上に自らの正しさを証明しようとしない。
そうして見つめていくと、情報の奥底に横たわる「我の欲」が見えてくる。
今の時代、その欲の多くはマネー(利益)と結びついている。
人の注意を引きつけ、驚かせ、怒らせ、不安にさせる。その感情の発露がすべて数字になり、利益へと還元されていく仕組みだ。
だが、世間の自我や欲望の構造をいくら書き連ねても、玉ねぎの皮を剥くようなもので、最後には虚脱感しか残らない。
そこで、今朝の冒頭に巡りついた言葉が、再び大きな意味を持って立ち上がってくる。
――「普通」が一番である、と。
ここでいう「普通」とは、何も考えずに過ごすことでも、世間に流されることでもない。
世間の虚言や欲、情報の裏にある仕組みをすべて見極めた上で、なお「自分の日常」へと帰ることだ。
食べる。働く。片付ける。土に触れる。人と交わる。手を動かす。祈る。眠る。
そこにこそ、揺るぎない暮らしの足場がある。
そして今日は、さらに「具体に生きる」という境地まで辿り着いた。
身の周りを整える。畑を耕す。ボランティアに足を運ぶ。形ある趣味に没頭する。
頭の中だけで思想をこねくり回すのではなく、具体の中に身を置く。具体的に生きることで、初めて自分の本当の立ち位置が見えてくる。これは観念の遊戯ではなく、観念を打ち破るための暮らしである。
第七十三段の後半で、兼好法師は世間の虚言を厳しく批判しながらも、神仏の奇特や権者の伝記までを同じ物差しで野蛮に切り捨ててはいない。
ここには、世俗の情報と「信仰(奇蹟)」の世界をあえて分けて捉える眼差しがある。
昨日、私は「心」と「こころ」を分けて考えてみた。
世間の情報に反応し、判断し、揺れ動くのが「心」。
その動きを、一歩深いところから静かに観ているのが「こころ」。
世間の出来事には客観的な吟味が要る。だが、信仰や精神の世界には別の受け取り方がある。
何でも盲信するのでもなく、すべてを冷笑して疑うのでもない。世界に応じて受け取り方を柔軟に変える――そんな静かな智慧が、兼好法師の文章の底流には流れている。
「群盲、象を撫でる」という言葉がある。
誰もが自分の触れた一部分だけを捉えて「これぞ真実だ」と語る。それもまた、悲しいかな世間のあり様だ。
だからといって、無関心を決め込んで背を向ける必要もない。薄目を開けてニッコリと笑っておく。
見ている。聞いている。けれど、すべてを抱え込みはしない。そして静かに自分の暮らしへ帰っていく。
ここに、私の目指す「普通が一番」という世界観が、すっきりと形を成した気がする。
朝の情報も同じだ。
目覚めとともにテレビやSNSを開けば、そこに流れる言葉がその日一日の心の背景(トーン)を支配してしまう。
だからこそ、私は前夜に『徒然草』を読み、眠り、朝もう一度開く。
世間の雑多な情報が入ってくる前に、まず自分の中に静かな座(居場所)を調える。朝の坐禅もまた、同じ役割を果たしているのだろう。
世間から逃げるのではない。世間に生きながら、世間だけに絡め取られない。
七百年前の兼好法師も、令和を生きる私たちも、まったく同じ問いと向き合っている。これこそが『徒然草』を読み解く醍醐味だ。
輪読会の終わりに、このような言葉が心に残った。
「言わず語らず、喫茶去。こころの世界に、逍遥すべし。」
言葉を尽くしたあとに、その言葉すら手放す。
お茶をひとくちいただき、具体の暮らしへと帰る。
そこからまた、今日という新しい一日を始める。
令和八年八月十七日。
今朝もまた、『徒然草』から、自分の暮らしへと帰る大切な一筋の道をいただいた。
【輪読会メモ:『徒然草』第七十三段】
原文
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。あるにもすぎて人は物を言いなすに、まして年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきまに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。……(中略)……かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これらは、世俗の虚言をねんごろに信じたるともこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひあしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。
現代語訳(要約)
世間に語り伝えられることは、ありのままでは面白くないからか、多くは嘘である。実際以上に誇張して語るうえに、年月が経ち場所が離れれば、好きなように語られて文字に書き留められ、定着してしまう。……(中略)……かといって、神仏の奇蹟や高僧の伝記などを一切信じないというのも良くない。これらは世間の嘘を真に受けるのも愚かだが、「そんなはずはない」と否定しても意味がない。大体は本当らしく受け流しておき、いちいち鵜呑みにもせず、かといって疑って馬鹿にすることもないのが良い。











