なるみと読む徒然草 第八十五段 陶主日記
今朝の第八十五段は、ずいぶん人間臭い一段になった。
兼好は、人の心というものは必ずしも素直ではなく、偽りもあると言う。それでも賢い人を見て羨み、そこから学ぼうとするのが普通である。ところが、愚かな人は賢い人を見ても素直に認めない。「あれは名を上げたいだけだ」「何か裏があるに違いない」と、自分の心の物差しで相手まで量ってしまう。ここで語られているのは、まさに心のあり様である。
私は今、「心」と「こころ」を形式上分けて考えているが、この段は、自我の側にある心、その癖や傾きをどう整えるかという話に見える。兼好は難しいことを言わない。まず賢を学べ。偽りでもよいから、善い方を真似よ。教育と言えば教育である。しかし、まだ臨書に入る以前、筆の持ち方や座る姿勢を覚えるような初歩にも思える。人は何を真似るかによって形づくられる。賢を真似れば賢の方へ向かい、悪を真似れば悪の方へ向かう。心の自律、自立へ向かうための、まさに入門編なのだろう。
ところが、この段には妙に感情的なところがある。「至りて愚かなる人」「下愚」、そして突然、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」と来る。この例えは、少し突飛である。何かあったのではないか。そう思うと、当時の婆娑羅(バサラ)の姿が目に浮かんで来る。派手な格好をし、既成の秩序をものともせず、新しい力を得て成り上がってゆく者たち。兼好にとっては、その姿が少々勘に障ったのではないだろうか。
もちろん、本文に婆娑羅と書いてあるわけではない。しかし「狂人の真似をして大路を走る」という視覚的な表現の背後に、何か具体的な人物や光景があったと考えると、文章の熱がよく分かる。私には、1970年代のロックの風潮を見て、「何だ、あの格好は」と小言を言いながら、どこかその自由さを羨ましく眺める年長者の姿にも重なって見えた。私自身、1970年代は青春の門からずずっと奥へ入り込んだ、まさに青春時代だった。
時代が大きく変わる時、人心もまた大きく揺れる。兼好は、その乱れをただ嘆いているのではない。その世の中そのものが、疑いようもなく自分自身の生きるジンカンでもある。だから、誰かを断罪して終わることができない。人を見て腹を立て、呆れ、そして最後には自分自身へ返って来る。
文章には書かれていないが、第八十五段の末尾には、大きなため息が聞こえる。「人とは、まことに厄介なものだ。」しかし、その厄介な人間の中に自分もいる。それでもなお、「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」と書く。
乱れた時代の中で、壮大な理想を説くのではなく、まず善いものを善いと認める。そして、そこへ自分の姿勢を向ける。今日の第八十五段は、そんな小さなところから人を立て直そうとする、兼好の正直な小言であったように思う。大きなため息の向こうに、人間を見つめる眼差しがあった。
改めた点は、段落の区切りを内容のまとまりごとに整理し、一文一文の言い切りのリズムを保ったまま読みやすさを整えた程度です。言葉や論の運びはそのままにしています。
徒然草 第八十五段 ー原文ー
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人などかなからん。
己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。
至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。
己れが心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず。仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
ー現代語訳ー
人の心というものは、いつも素直でまっすぐなわけではないから、まったく偽りがないということもない。けれども、世の中には生まれつき正直な人もいるだろう。
自分自身がそれほど素直でなくても、賢い人を見て「あのようになりたい」と羨むのは、ごく普通のことである。
ところが、ひどく愚かな人は、たまたま賢い人を見ると、かえってその人を憎む。
そして、
「大きな利益を得ようとして、わざと小さな利益を受けず、立派そうに振る舞って名声を得ようとしているのだ」
などと悪く言う。
自分自身の心とは違う振る舞いをする人を見て、このように嘲るのである。それによって、この人は考え方を改めることのできない愚かな性質の人だと分かる。
このような人は、たとえ形だけであっても小さな利益を辞退することもできず、仮にでも賢い人の振る舞いを学ぶことができない。
狂人の真似だと言って大通りを走り回れば、その時点でもう狂人と同じである。
悪人の真似だと言って人を殺せば、その人はすでに悪人である。
名馬を学ぶものは名馬の仲間となり、聖王・舜を学ぶものは舜の仲間となる。
だから、たとえ最初は形だけの真似であったとしても、賢い人を学ぼうとする者を、賢い者と言ってよいのである。













