なるみと読む徒然草
第百十八段 歴史は台所にあり
令和8年10月9日(金曜日)晴れ
午前7時10分起床。
今朝のフシハラ円座は、宮中の食べ物と故実についてのお話。
鯉、雉、松茸、そして雁。
兼好法師の語る宮中の食文化から、平安・鎌倉時代の食卓を覗いてみる。
一、原文
鯉の羹(あつもの)食ひたる日は、鬢(びん)そそけずとなん。膠(にかわ)にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。
鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉(きじ)、さうなきものなり。
雉・松茸などは、御湯殿の上に懸りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。
中宮の御方の御湯殿の上の黒み棚に雁(かり)の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて御文にて、
「かやうのもの、さながら、その姿にて御棚にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさぶらはぬ故にこそ」
など申されたりけり。
二、現代語訳
鯉の熱い汁物を食べた日は、耳のあたりの髪が乱れないという。
鯉は膠の材料にもなるものだから、粘り気があるためなのだろう。
鯉だけは、天皇の御前でも料理されるほど格式の高い魚である。鳥では雉が格別で、これに並ぶものはない。
雉や松茸などは、宮中の御湯殿の上の間に掛けてあっても差し支えない。しかし、それ以外のものでは見苦しい。
あるとき、中宮様の御殿の黒み棚に、雁がそのまま置かれていた。
それを北山入道殿がご覧になり、帰宅すると、すぐに手紙を書かれた。
「あのようなものが、そのままの姿で御棚に置かれているとは、見慣れないことで、みっともないことです。きちんと心得た人がおそばに仕えていないからでしょう」
と申し上げられたという。
三、宮中の食卓を覗く
兼好法師は、食べ物にも格式があり、扱い方にも故実があることを語っている。
鯉は高貴な魚、雉は格別な鳥。
雁一羽の置き方にまで、宮中の作法が及んでいる。
何とも細かな世界である。
しかし、茶碗屋として興味を持つのは、その料理がどのような器に盛られていたのか、ということである。
平安貴族の食卓には、中国から渡来した青磁や、国産のかわらけ、漆器などが使われていた。
以前、日根野荘の資料館で、貴族の御膳を復元した展示を見たことがある。
そこには青磁の器が一つあり、かわらけも並んでいた。
ちょうど『源氏物語』を読んでいた頃で、強く印象に残っている。
紫式部の時代には、蘇や酪といった乳製品も知られていた。
やがて貴族社会から武家社会へと時代が移り、食生活も変わっていく。
宮廷の乳製品文化は次第に衰え、味噌などの大豆加工食品が食生活の中で存在感を増していった。
器もまた、時代とともに変化した。
鎌倉時代には、山茶碗のような日常の陶器が広く使われるようになる。
四、山茶碗と私の修行時代
私は若い頃、静岡県の森山焼で中村藤吉先生に学び、その後、瀬戸赤津の菊陶園で5年間修行した。
中村先生は、伏原家の曾祖母の実家につながる方である。
先生の勧めで瀬戸の陶磁器訓練校に入り、その後、先生について轆轤や手捻りを学んだ。
赤津の菊陶園は、作家の工房ではなく、昔ながらの焼き物屋だった。
まだ手作りの陶器が残っており、古くからの製陶技術を実際の仕事の中で学ぶことができた。
その頃、小長曽陶器窯跡にもよく足を運んだ。
昭和の名だたる陶芸家たちが古窯の研究に情熱を傾けた、陶磁史上重要な場所である。
山茶碗は今も手元に残っている。
名もない職人たちが作った器が、何百年もの時を超えて、当時の暮らしを伝えてくれる。
五、歴史は台所にあり
私は、歴史を表玄関から眺めるより、裏の台所から覗く方が面白いと思っている。
何を食べ、何に盛り、どのように暮らしていたのか。
そこには、その時代の人間の姿がある。
高貴な人々が、必ずしも健康的な食生活を送っていたとは限らない。
豊かさと健康は、必ずしも一致しないのである。
私は今、毎朝玄米を食べている。
人間の身体は、食べたものでできている。
それは千年前も今も変わらない。
兼好法師は、宮中の故実や伝統を大切にした。
しかし、私が今の時代に何と向き合い、何を残そうとしているのか。
それは、兼好法師とはまた違う問題である。
私は単に伝統を守るために、茶碗を作っているのではない。
古いものを学びながら、今を生き、次の時代につながる仕事をしたい。
その答えは、これからも日々の暮らしと作陶の中で探していく。
歴史は表玄関より、台所から覗く方が面白い。
今朝もまた、兼好法師と七百年の時を超えて、楽しい円座となった。
喫茶去。
水間焼 伏原窯
なるみと読む徒然草 第百十八段

















