なるみと読む徒然草 第七十二段
賎しげなるもの――多さの中に、こころの余白を
令和8年8月16日(日曜日)曇り
【原文】
賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。
今朝は、徒然草第七十二段。
「賎しげなるもの。」
兼好法師は、身の回りの調度、硯の筆、持仏堂の仏、庭の石や草木、人に交わす言葉に至るまで、「多きもの」を野暮で貧相なものとして次々と挙げていく。
七百年後の今を見渡せば、私たちはさらに「多き」世界に暮らしている。
物が溢れ、情報が溢れ、言葉が溢れる時代。
ここで胸に浮かんできたのが、「知足(足るを知る)」という言葉だった。
ただ物を少なく持てばよい、ということではない。
自分は何によって立っているのか。
何があれば足りるのか。
どこで止まることができるのか。
その確かな土台を、自らの内に持つということである。
兼好の美意識を突き詰めていけば、やがて茶室の文化へとつながっていくように思う。
物を置き過ぎない。
風が通るようにしておく。
光を入れ、そして光だけでなく影の深さも意識する。
そうして身の周りを整えたとき、そこに自ずと「心の空間」が生まれる。
人が訪れれば、お湯呑みをひとつ出す。
言わず語らず、ただ「喫茶去(きっさこ)」。
立派な茶室などなくてもよい。
いつでも、どこでも、心が整えば、その場がそのまま茶室となる。
だからこそ、日々の暮らしが大切になってくるのだ。
心を整え、こころを育てる。
その日々の営みの中に、「なるみの種」を蒔いていく。
種は、無理に芽を出させるものではない。
風を通し、光を入れ、水をやり、ただ静かに待つ。
そうした暮らしの中でこころが歓び、その歓びが言葉や所作、仕事へと響いていく。
その反響がまた人を育て、人間を少しずつ深めていくのだろう。
知足とは、頭で決めるものではなく、そうした暮らしの循環の中から自然と見えてくるものなのだと思う。
そして兼好は、この段の最後をこう結ぶ。
「多くて見苦しからぬは、文車の文」
書物だけは、多くあっても見苦しくない。
ここには、物を増やすこととは違う、もう一つの「多さ」がある。
こころを耕す言葉を得ること。
よい言葉に触れ、それを自分の中に置き、日々を生きる中で、やがて自分の言葉として育てていく。
それはとても美しい営みだ。
この「なるみと読む徒然草」も、そうした世界の一助になれればと願っている。
答えを教えるためではない。
七百年前の言葉を共に読み、それぞれが自分の暮らしへと持ち帰る。
そして、いつの日か誰かの心の中で芽を出せばいい。
それが「なるみの種」である。
私の先生は、こうした心を**「太白(たいはく)のこころ」**と呼ばれていた。
余計なものを足さず、白く、澄んだ原点へと帰っていく。
そこから、「生涯書生」という生き方も生まれてくる。
もう分かったと思わない。
もう完成したと思わない。
今日も学び、今日も整え、今日も新しく生きる。
徒然草という古典そのものも、そうした心が書かせたものなのかもしれない。
世を見切った高嶺の花の言葉ではなく、この世の中を見つめながら、最後まで学び続けた人の言葉。
だからこそ七百年を経た今も、私たちの日々の暮らしに静かに響いてくる。
そうして最後に残る言葉は、とても簡素なものだった。
使命――ただ、生きる。
ただ、生きる。
日日を整え、心を育て、仕事をし、人と会い、一碗を差し出し、また新しい一日を始める。
その循環の中から作品も言葉も生まれ、なるみの種も自然と蒔かれていく。
今日もまた、生涯書生として。
一服して、
また、日日へ帰ろう。
喫茶去。











