なるみと読む徒然草 第百二十二段
かろみの哲学
令和8年10月13日(火曜日)晴れ
午前7時17分、フシハラ円座。
【原文】
«人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす。
次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便りあらんためなり。
次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務めも、医にあらずはあるべからず。
次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出だせり。必ずこれをうかがふべし。
文・武・医の道、まことに、欠けてはあるべからず。»
【現代語訳‐抜粋】
人の才能として第一に大切なのは、学問に通じ、聖人の教えを理解していることである。
次には文字を書くこと。専門としなくても、学問のために習っておくとよい。
さらに医術を学ぶこと。自分の身体を養い、人を助けるためにも必要である。
弓術や馬術も、古くから大切にされてきた教養である。
学問、武芸、医術は、いずれも欠かせないものである。
【才能と修行】
「巧は拙なり、拙は巧なり」
今朝の円座は、この言葉から始まった。
才能とは、自分自身では分からないものである。
好きこそ物の上手なれ。
一途にその道を歩めば、天は何とかしてくれるものだ。
かつて信仰を伝授してくださった先生は、こう教えてくださった。
「ただただ目隠しされて、山を登るが如く」
頂上がどこにあるのかも分からない。
登り着けるのかどうかも分からない。
それでも、ただ歩む。
才能があるかどうかなど、歩いている本人には分からないのである。
兼好法師の老婆心
さて、第百二十二段。
兼好は、男子たるもの、学問、書、医術、弓馬など、ひと通りの心得は持っていた方がよいと説く。
しかし、あまり芸事に深入りするのも考えものである。
まあ、世渡りするには、これくらい身につけておけばよろしかろう。
そんな兼好の老婆心が聞こえてくる。
兼好はなかなかの苦労人である。
教養を振りかざして説教すれば、「語るに落ちる」。
そこで、教養をチラチラと小出しにしながら、文章の焦点を軽みに変えていく。
この筆の運びが、実に面白い。
重きを転じて軽きに変える
伏原窯の得意とするところは、
「重きを転じて軽きに変える」
人生を語れば、誰の人生も重い。
しかし、その重さを知性と教養によって軽みに変え、余白を持って生きる。
これが伏原窯の世界観である。
重さを知らない軽さは、ただの軽薄である。
重さを知りながら、なお軽やかに生きる。
そして、たどり着くところは、
「普通が一番」
ハハハ。
ところが他人から見れば、
「全然普通じゃないやんけ!」
と言われるかもしれない。
それもまた、よろしいではないか。
近代の終焉を眺める
近代は自我と個性を大切にしてきた。
しかし、自我を確立し、個性を主張してきたことの代償も、いずれ払わなければならない。
今、その変化が進行している。
私はその世界を、兼好的に観ている。
批判するでもなく、声高に論じるでもなく、時代の移り変わりを眺めている。
兼好には頓阿という歌人の友がいた。
彼は兼好にとって、大切な宝だったのではないだろうか。
兼好の文章には独特の鋭さがある。
外を斬りながら、内も斬る。
しかし、自虐には陥らず、さらりとかわす。
論議に深入りせず、余白を残す。
ところがフシハラ円座は、その余白をこじ開ける。
論議にもする。ネタにもする。茶化しもする。
ハハハ。
兼好は文章に余白を残し、円座はその余白で遊ぶ。
これが、なるみと読む徒然草の面白さである。
【かろみの哲学】
「有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず」
いろは歌の一節である。
才能にも酔わず、教養にも酔わず、自分の思想にも酔わない。
巧も拙も、そのまま引き受ける。
そして、今日も茶碗を作る。
重きを転じて軽きに変える。
余白を持って生きる。
普通が一番。
近頃、円座の読者も少しずつ増えてきた。
身内から、
「今日はまだ上がっていませんね!」
と声がかかることもある。
ありがたいことである。
七百年前の兼好法師が、今朝も大阪の茶碗屋に呼び出され、あれこれ論じられ、茶化されている。
兼好さん、えらい時代になりましたなぁ。
ハハハ。
今日も生きています。
水間焼 伏原窯
フシハラ円座


















