なるみと読む徒然草 第百一段
【原文】
或人、任大臣の節会の内弁を勤められけるに、内記の持ちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。極まりなき失礼なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひわづらはれけるに、六位外記康綱、衣被きの女房を語らひて、かの宣命を持たせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。
【現代語訳】
ある人が、大臣任命の節会で内弁の役を務められたとき、内記が持っている宣命を受け取らないまま、堂上してしまわれた。この上ない失礼であるが、今さら引き返して取りに行くわけにもいかず、途方に暮れておられたところ、六位外記の康綱が、衣被きの女房に頼んで、かの宣命を持たせ、人目につかぬよう、そっと差し上げさせた。実に見事な機転であった。
――縦から横へ、横から円へ
令和八年九月十五日(火)曇後雨。
今日の仕事を終え、夕食をいただき、風呂から上がってからの、夜の円座である。
第一〇一段。
大臣任命の儀式で、内弁を務める人が、大切な宣命を受け取ることを忘れたまま堂上してしまった。
大変な失態である。
しかし、もう引き返すことはできない。
それに気づいた六位外記の康綱は、衣被きの女房に宣命を持たせ、人目につかぬよう、そっと届けさせた。
兼好は最後に、
「いみじかりけり。」
と記した。
私はここを、
「事なきに治まった。ああ、よかったなぁ〜。」
と読んだ。
誰が失敗した。
誰が助けた。
誰のお陰でうまくいった。
そんなことではない。
これはそもそも、みんなで行っている儀式である。
一人に欠けたところがあれば、気づいた者が補えばいい。
特別な善行でも、手柄でもない。
当然のことなのである。
誰にも恥をかかせず、誰も手柄を主張せず、全体が元の位置へすっと収まる。
そこに「円満」がある。
私はこれを、特別なこととは読まない。
「普通」と読む。
母から受け継いだ、
「普通が一番」
とは、案外こういうことなのだと思う。
人の欠けを見つけて責めるのではなく、そっと補う。
そして、その人が無事であったなら、
「よかったなぁ。」と思う。
幸せとは、自分一人が手に入れるものではない。
人が幸せになったとき、それを「よかった」と共有できる気持ち。
そこにもまた、幸せが生まれる。
私たちは、もう一度「共有する」ということを学んでいくのではないだろうか。
かつての社会では、今ほど「個」が中心ではなかった。
しかし昔の共同体へ、そのまま戻ればよいのでもない。
現代は一度、「個」を知った。
だからこれからは、
個を立てながら、「みんな」を共有する。
同じになる必要はない。
一人ひとりが自分の場所に立ったまま、必要なところでつながる。
誰かが欠ければ、できる人が補う。
誰かが幸せになれば、みんなで喜ぶ。
そこから見えてきたのが、
縦から横へ。
横から円へ。
という形だった。
円には、上も下もない。
けれど、一人ひとりには、それぞれの座がある。
誰かが中心となって全員を従わせるのではなく、それぞれの個が立つことによって、一つの円が生まれる。
サークルである。
考えてみれば、私たちはこの対話の場を、すでに
「フシハラ円座」
と名付けていた。
今夜、いみじくも、この「円」が生きていた。
その円は、これから『万葉集』へとつながっていく。
『万葉集』には、さまざまな人々の、それぞれの声がある。
一人ひとりが自分の思いを歌いながら、それらが集まり、一つの大きな世界をつくっている。
個でありながら、みんなである。
これから歩もうとしている道と、不思議につながってきた。
円と、縁。
縁(えにし)である。
最初から誰かが設計したわけではない。
一日一日を生き、読み、書き、器を作っているうちに、気がつけば道がつながっていた。
それでよいのだろう。
第一〇一段。
短い一段から、これからの生き方の核となるものが見えてきた。
個を立て、円につながり、幸せを共有する。
誰かの欠けたところを、誰かがそっと補う。
そして、事なきに治まれば、
「ああ、よかったなぁ〜。」
それを特別なことにしない。
普通が一番。
今夜は、そんなところまで円座が巡ってきた。
「いみじかりけり。」
――なるみと読む徒然草 第一〇一段
令和八年九月十五日 夜の円座


















