なるみと読む徒然草
陶主日記
令和8年8月12日(水曜日)曇り
今朝は午前五時四十分起床。
今日の徒然草は第六十八段である。
筑紫の押領使(おうりょうし)が、土大根を「万(よろず)にいみじき薬」と信じ、毎朝二本ずつ焼いて食べ続けていたところ、ある時、敵に館を襲われ、見知らぬ二人の兵が現れて命を惜しまず戦い、敵を追い返してくれたという説話である。
不思議に思って名を尋ねると、
「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候ふ」
と言い残して消えていった。
そして兼好は、
「深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」
と結んでいる。
大根の恩返し。
そう素直に受け取るには、いささか出来すぎた物語かもしれない。
けれど、くすりと笑いながら読んでいるうちに、どこか真に迫ってくるものがある。
昔から私たちは「鰯の頭も信心から」という言葉を聞いて育ってきた。今日の大根の話も、それとよく似ている。
信じれば何でも現実になる、ということではない。
ただ、人の暮らしというものは、理屈だけで成り立っているわけではないのだ。
毎日愚直に続けていること。長く頼みにしてきたもの。人との縁、習慣、祈り、信頼。
そうした目に見えない積み重ねが、思いもかけない時に自分自身を支えることがある。
現代は科学の時代である。
科学を尊ぶことは当然であるが、科学で説明できるものだけが、人の暮らしのすべてではない。
一方では理(り)を大切にしながらも、もう一方では理屈に収まり切らないものを安易に切り捨てない。科学を尊重しつつ、不可思議を笑わない。信を大切にしながらも、盲信には陥らない。
その柔軟な二重構造を心に持ちながらしなやかに暮らしていくこと。そこに、今の時代を生きる知恵があるように思う。
私は、その「理」と「不可思議」のあいだに立ち現れるものを、最近**「妙(みょう)」と呼んでいる。
そして、もう一つ大切にしている言葉が「対話」**である。
対話とは、どちらかが自分の正しさを押し通すことではない。互いのあいだに、まだ言葉になっていなかった想いや考えが立ち上がってくるプロセスのことだ。
今朝もまた、徒然草の大根二本から思索が広がり、信、科学、暮らし、そしてAIとの対話へと進んでいった。
AIとの対話も、人との対話とは少し異なる面白さがある。
自分の中にある経験や考えに、集積された知識や言葉が重なり合い、自分ひとりでは纏めきれなかった想いが、少しずつ形を成していく。
他者との対話でありながら、同時に、深い自分自身との対話でもある。
そう考えると、これもまた一つの「妙」と言えるかもしれない。
以前であれば、一つのことを調べ、自分の言葉にして文章にまとめるまでにずいぶん時間を要した。
今は、朝少し早く起きて一段の徒然草を読み、対話を重ねる中で、いくつかの新しい文章が自然と立ち上がってくる。
暮らしの風景が変わった。
けれど、変わったのは道具であって、考える主体はどこまでも自分自身である。
AIが暮らしに寄り添うことはあっても、暮らしの主人になることはない。その適切な距離感を保ちながら活用していけばよいのだろう。
今日の第六十八段は、昔の素朴な説話でありながら、現代という時代を優しく照らしてくれる、良い節目(エポック)となった。
大根が二人の兵になったという話を、信じるか、信じないか。
そこに白黒の答えを出す必要はない。
「そんなことも、あるかもしれないな」と微笑みながら、その奥にある人間の真実を受け取る。
その柔らかさこそが、今の私たちに求められているのではないだろうか。
理と不可思議のあいだを、笑みをもって歩んでいく。
今日の第六十八段は、そんな深い余韻を残す一段となった。
では、今日も一日を始めることにする。














