仕事は乾山写竜田川紋小吸物の蓋の削り仕上げと金彩もみじ紋平向付の赤絵付け、色絵青もみじ紋大鉢の葉脈描きです。
水間焼伏原窯作品展のご案内・終了しました
久しぶりの展示会でしたが、お懐かしい方との再会もさせて頂き胸の熱くなる想いと共に終わらせて頂くことが出来ました。有難うございました。また来年もコスモスシアターで同じ頃、させて頂きたいと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
水間焼伏原窯作品展のご案内
新緑の野山、風薫さわやかな季節となって参りました。皆様には大変久しくご無沙汰していますが、お変わりなくお過ごしの事と存じ上げます。さて、水間焼伏原窯の展示会のご案内を申し上げます。ここコスモス・シアターで25周年展を期に長く展示会をお休みさせて頂いておりました。大阪曽根崎にある工芸店「ようび」さんとのお付き合いから、私たちが従来制作していた食器を一層発展させることに精進させて頂いております。伏原窯を立ち上げ三十年近くになり、ようやく目指す焼き物に近づいてきたように思っています。地元貝塚には古くから都文化が根付いており、江戸末文化文政の願泉寺お庭焼き、またその以前には京都音羽焼の一派酒井庄太郎氏が堀新町で「貝塚音羽焼」を開窯するなど、京焼にまつわる伝統は今も根付いていると思います。その活き吹きを引き継ぎ貝塚文化に昇華する想いで、水間焼伏原窯の展示会を再開いたします。「隗よりはじめ」肝に銘じて始めて行きたいと思います。
日時・会場
日時 /6月7日(木)~9日(土) 午前10時~午後6時(*最終日は午後5時まで)
会場 /コスモスシアター・小ホール 電話0724-36-5031
アクセス/南海線貝塚駅から水間鉄道に乗り換え、貝塚市役所前下車、徒歩5分。
コスモスシアターまでの詳しい案内はこちらからどうぞ→ コスモスシアター(アクセス)・公式ホームページ
66回の終戦記念を終えて
お早うございます。時間の経つのが怖いほど早く感じています。八月に入りお盆の支度をしなくてはと思っていたら、今日はもう藪入り。京都五山の送り火。いろいろなニュースに送り火も翻弄されたようです。まだまだ私たちが震災後の生活に軸を持っていないことの証しだと思います。国会もなにやら遅きにしした思いがありますが、ようやく動きがでてきたかな、そんなことを思うと、「甘い!」とお叱りを受けそうですが。しっかりとした方向と迅速な行動を期待したいと心底思っています。
八月に入って世界経済がガタガタと震度8レベルの強震に見舞われました。以前から指摘されていたことですが、いよいよマネーの崩壊か?と思わせる事件が続きました。戦後がいつの間にか戦前になっている、そんな思いに駆られています。昭和大恐慌、戦前とは仕組みや構造が全く違った世界情勢ですが、結局リーマンショックから三年、状況が好転したかと言えば、むしろマネーの増発で各国はインフレに悩ませられるようになってきました。各地で暴動が金髪に起き、方向性のない行きづまった状況が今も事態を深刻化させています。リーマンショック後アメリカは巨額なマネー、国債を世界にばらまきました。そのマネーで中国や後進国がGDPを上げてきました。中国経済はバブル化し、その発展を加速しなければ経済は持たなくなってきました。その歪みの象徴が高速鉄道の事故だと思います。アメリカの国債の格付けが下がることと、あの事故とは深い因果関係があると思っています。
デフレに悩む日本でさえ「金」ゴールドのニュースが流れ始めました。金の価格が史上最高値を出した。それって市場経済に対する恐怖心の現れでしょう。ドル安やインフレに対するヘッジだけが要因ではなさそうです。どうも事態は深刻になってきたように思います。こんな心配当たらない方がいいに決まっているのですが、今年後半年末にかけ、八月に起こった事態がどのように推移意していくのか、心して注視したいと思っています。
明治の先代方もいろいろな苦難を通り越して、立派な作品を世に残してこられました。時代が変わろうとも人のこころは変わりません。いつもいつもこの原点を見つめて、私たちの仕事を進めて参ります。
水間焼と京焼
水間焼という名称は古く文献にも登場するのですが、水間焼伏原窯は昭和60年に貝塚市大川村にて私、伏原博之が開窯しました。その際に、自らの氏名を取り命名したものです。
昭和5年頃に水間の中野氏が私財を投じて水間焼を起した事がありますが、しかし窯を営んだ期間は極短く、また残る作品も少なく、今では大変希少なものとされています。
私は10年の陶芸修行を経てここ貝塚に築窯した際、古くからある「水間焼」をやらないかとのお誘いを受けました。
正直私は考えました。何故か。この地元の名を付けることで、個人作家としての活動に大きな制限を受けるかもしれないこと。地元に縛られること。水間焼の由来の説明が必要なこと。多くのハンディを考えるとはたしてどうか?とも思いました。
しかし自分が独立する際に考えていたことは、地元に帰って来てここでしかない焼き物を表現したい、みんなに見てほしい、そして使ってもらいたい。この地を代表する焼き物を作っていきたい。。。。ここで自分が考えたこと、感じたことすべてを器にもっていこうと思い立ちました。よし水間焼伏原窯という看板を背負って行けるところまで歩いていこうと決心しました。
これが「水間焼伏原窯」の原点です。
伏原窯は開窯以来25年になろうとしています。25年の歩みの中で伏原窯の作品は一年一年変化し続けて来ました。それがまたこの窯の特徴だと考えています。10年前の作品を今作ることは不可能です。その時どき出会った人たちに、その時生まれた作品が手渡されていきました。多くの人たちに多くの作品が使われております。
毬紋皿伏原窯は平成17年春、大阪曽根崎にある工芸店様店主真木啓子さんとの出会いから、古清水をベースにした食器を作り始めました。
古清水といっても一般の人たちにはあまり馴染みがありませんが、古く17世紀、18世紀に京都で栄えた焼き物の総称です。
この古清水をベースにした食器で、今いいものが見当たらない。伏原窯の技巧ならやっていけるのでは、と真木さんは仰います。大変精緻な、また手間暇のかかる焼き物ですが、大いに遣り甲斐のある仕事です。
従来の伏原窯の作品とこの古清水をベースにした作品とが、今混合してHPに掲載されています。今後の活動はこの古清水をベースにした作品が中心となってくるでしょう。
ここで従来の作品との区別から「伏原窯の京焼」という名称にして作品を紹介しております。これから多くの作品が生まれてくるでしょうし、多彩に変化していくと考えて居ります。
どうぞ、今後とも水間焼伏原窯をお引き立てください様、重ねてご愛陶よろしくお願い申し上げます。
金高騰にあおられています
こんにちは。今日は朝からいい日和で、心地いい風が工房の中をすり抜けていきます。午後から十草紋の飯碗の削り仕上げに入ります。人気上昇の飯碗ですが、どうぞこれからもご贔屓お願いいたします。
すたっふMさんから金を購入したいと、電話をもらい、このところの相場を聞くと、うううう、。考え込んでしまいます。グラム4500円プラスアルファー。いつも5gずつ購入するのですが、5年前からだと2000円くらい値上がっています。
昨日紹介しました、乾山5寸土器皿で計算するとゥゥゥゥゥ。金代にびっくりします。
乾山が活躍していたころは元禄期で、まだ寛政の改革までしばらくあり、ふんだんに金を使うことができた時代です。絵変わり土器皿も素朴なかわらけに金という対照的なコントラストの妙が、綺麗さび京都にマッチングしたのでしょう。贅沢極まりない日本的美意識ですね。
平成の土器皿はかなり細かな計算しても、なかなか成り立たないと、工房主は嘆いています。お客さんはよくご存じですよね。何が得か。金相場に利を持って行かれないように、こちらも防衛していかねばと、考えていますが。ない頭を絞っても出てくるものは知れています。
慌ただしい一週間
こんばんは。慌ただしく一週間が過ぎてしまいました。品物を納めにようびさんに行ったのが先週の火曜日。その日電話注文で紫陽花の角皿が売れ、それに合う桐箱がほしいということで、ようびに出発間際バタバタしながら寸法を取ると、案の定それが間違っていて、最速して作った箱がオジャン。またまた作り直してもらい、金曜日クラブから帰って、墨を磨りこころ落着かせ箱書きをしました。19日土曜日に会社のパーティーがあってそこでお渡しするということでした。なんとか間に合わせることができたのですが、先週は全てにチグハグが付いて回りました。
日曜日、甥の結婚式で京都に出かけました。雨の京都は車がいっぱいで、三条辺りから渋滞で東大路はなかなか進まない状態でした。最近の結婚式は、神前でもなく、アーメンでもなく、仏前でもなくて、人前式という形式が流行りだそうです。親族一同の前でみんなに承認してもらうということのようです。いいと思いました。色々な価値観を持っている方々も参加しやすい形式のように思いました。結婚式もこの様になって来たのだから、葬式もまた変わっていくといいのにと思うのですが。江戸封建社会の檀家制度が、葬式を独占しているように思います。地獄、極楽を作ってあの世の引導を渡すという事も、時代にそぐわなくなっているようにも思うのですがね。ついでに言っておいきますが、「悟り」なんて誰が発明したのでしょうか。仏と凡夫に分けて「浄土」往生、そろそろ其処も私たちは卒業としましょうよ。もう宗教の時代ではないでしょ。
そんなこんなを考えながら、若者が作る「結婚式」に参加し、シャンパンに酔いながらもしっかりフレンチを楽しんで参りました。80歳を超えた父を連れていくのは大変でしたが、人生の半ばを過ぎ、往く世界、またやって来る世界が同時に見え、人間って何、生きていくって何、としきりに考えてしまいました。
この二三年ですっかり世界が変わってしまいました。以前の価値観が全くと言っていいほど通用しなくなりました。ただ言えることは、ある意識を持って生活しなければ人や社会との繋がりもなくなってしまうと思うようになりました。テレビで無縁社会というテーマの番組がありました。不気味なタイトルだな、と思いながらも案外普通と見える生活の中に大きな穴が開いているのだと思うようになりました。
個人が意識を持って社会と繋がりを持つことは、その個人が社会に対して何をするのかをはっきりさせなければいけなくなってきました。なかなかそのことはハードな事だと思うのですが、しかし時代がそのことを個人に迫っているように思うこの頃です。
工房は磁器の仕事にかかり出しました。
懐石食器のこころ
こんばんは。山桜があれよあれよと咲き始めました。梅、椿、桜、それに山つつじまでも咲きだし、なかなか今年の三月は珍しい山の景色になっています。何か落ち着かない気持ちです。桜が咲いたことを素直に喜べないのは、今年も何かに追われている慌ただしさから解放されていない思いだからでしょう。
今日はJコムで流す地方番組の撮影がありました。泉州の伝統技術を紹介するそうです。午後1時過ぎにやって来て、5時ごろまで色々な場面と撮っていきました。こちらも地元の番組とあって大分サービスをして、轆轤のシーンなんぞまで提供しました。食器の話を中心にあれやこれや焼き物が持っている心の部分まで話してみましたが、そのことをマスメディヤで伝えるには難しいと思います。しかし少しでも食器の奥深さが伝わればと思っています。
食器にこだわりあらゆるデザインを形にしたのは京都の工人達だと思います。中心になるのはやはりお茶の文化でしょう。色々な茶人が自分の好みを実現するのに、各窯業地に型紙を送り、その型通りの器を作らせています。また南蛮貿易なども盛んだったので、安南(ベトナム)やスンクローク、スコータイなどインドシナまでも注文しています。中国明にも通称「古染付」と呼ばれるものを景徳鎮に発注しています。茶人が色々な発想でまた色々なデザインを駆使し懐石食器を作った事が、今の食器世界の古典となっています。
京焼は京の文人茶人が地方の窯に発注するより自らの地で作らせようと試みた事が始まりのように思えます。需要があり各地の陶工がやって来て盛んに茶事の器を作った事でしょう。
乾山陶器は懐石の器を日本情緒あふれる独特の世界に昇華させました。先にも後にもここまで斬新的に食器を作った陶工はいません。食器の奥儀を極めつくした感があります。
日本人のこころ、食器のこころを表現したいと心から思うこのごろです。
日々の器
こんばんは。今年は結局7月に梅雨が明けないようです。6月に入って空梅雨の様子でしたが、心配した様に後半になって豪雨が続いています。今日も蒸し暑い天気で体調が思うようにすぐれません。関節のあちこちに水分がたまっているようで、疲れがどしーっとおんぶされたように覆いかぶさっています。皆さん、お元気でしょうか。
工房は十草の飯碗を作っています。すっかり「工芸店様」の定番になったようです。有り難いと感謝しております。食器作りの者にいとって飯碗が世に通じるほど冥利に尽きることはありません。高価な抹茶碗より何より誇らしく思うものです。
食器の舞台は「にちにち」の普段の生活です。特別な装置で美しさを演出するような場所では有りません。私たちはこの「にちにち」をこよなく愛し、そこにこそ美を発見し、また美を創造する所と心得ております。人それぞれの暮らしが有り文化があります。好みも色々です。私たちの作る食器に巡りあえる機会も多々あるとは思いませんが、心をつくし作ることで伝えたい心を感じて頂けると自負しております。
20年前でしょうか、私の作った少し黄色かかった粉引きの飯碗が当時多くのファンを頂くことが出来ました。追加の注文を頂くとうれしく誇りに思いながら作ったことを思いだします。この飯碗で少し珍しいことが有りました。あるお方がどこで手に入れたか知りませんが熊本で工芸店をオープンされる友人に「このよう飯碗がある」と手渡されたようです。工芸店のオーナーは是非この御茶碗がほしいと思い、北は北海道からあらゆる手だてを講じて探したそうです。何か月もかけてやっと私どもの工房を探しあてたそうです。
電話の奥で「やっと見つけたぁ!」と歓声を上げていました。早速50個の注文を頂きましたが、ようやく厳選した作品を送ると「上品な京都のお菓子のよう!」と喜んでいただけました。
心が通じることを実感致しました。私は私たちの作る食器を「作品」と呼びます。食器にいちいち作品なんてとお思いでしょうが、日々の芸術作品と考えています。
「心を形に」を真剣に考えてこれからも食器を作って参ります。
食器も変わる
こんばんは。昨日の雨で注文していた筍はまずまずの出来栄えを頂くことが出来ました。今年はもう筍も終わりに近くなってきて、そんなにいいものも出てこないということでした。天候が4月になっても安定していなく、初旬の寒の戻りの様な寒さがあって、一気に夏日の様な、この季節にはなかった陽気が続きました。筍も陽気につられて出尽くしてしまったようで、でも昨日の雨は恵みの雨となり、今日は何とかいいものがとれたということでした。
早速朝掘りの筍をお土産に持って、工芸店様に出かけました。今回のお話は慢幕紋の筒向(つつむこう)を見せることです。私どもが古清水をはじめて4年になりますが、最初からこの筒向を作ることが最大の課題であり、また最終の作品になっていました。乾山の入り口に位置する作品でもあると真木さんは考えていたのでしょう。もう三年も前になるのでしょうか、京都国立博物館で「京焼展」があり、そこにも出展されていました。間近に見ることが出来たのは大変参考になり、その雰囲気がその時掴めたのも大いに為になりました。
一見、鉄と呉須の簡単な絵付けに見え、また造詣も同じく難しいものを感じませんが、実はそれがいちばん難儀な世界です。ごまかしの効かないストレートな轆轤で、古清水が持っている食器としての最高の贅沢である「品格」を作れているかという事に尽きるのです。今日明日で作れるものではない事がやっと分かって来ました。
面白い話に「乾山は京焼と云う事が分かった。」と4年前真木さんが云われた事をこの作品を作ることで私は実証したかったのでしょう。40年も一線で食器一途にやってきた人が、単にこの言葉を出したとは誰も思えません。しかし乾山陶器を本当に作るとなれば、相当の覚悟と度量がいることは間違い有りません。今までいかに乾山がうわべだけでとらえられてきたか、その様な食器が作られてきたか、真木さんはいやというほど経験されてきたのです。
有りがたい事にその事の重要性を知るきっかけを頂き、私たちは古清水の写しをベースに4年、作陶に打ち込ませてもらいました。薫陶という言葉がありますが、知らず知らずのうちに古清水が持つ雅さが私どもの仕事にも写って来てくれたのでしょう。筒向を挽く轆轤が何とも表現しがたい思いの籠ったものになりました。そのことが今日作品を見せて、真木さんに伝わったということはうれしい限りです。
また違った次元の器がこれから作られて行くことでしょう。大きな楽しみになってきました。
「乾山以上に乾山」
こんばんは。弥生三月、ようやく寒さともお別れと思っていましたが、今日のお山は冬に戻ったようで足もとからじんわりと冷え込んで来ました。工房は午後から一つ取材が入っていました。大阪JAバンクが発行する季刊誌に載るようです。先週金曜日の予定が雨で延期となり、今日となりました。天候も晴れてくれて写真もスムーズに進められたようです。大阪市内から来るとやはり山間は寒く感じるのでしょう。四時を回るとストーブ一つでは間に合わなくなりました。
取材と同時にお客様も来て下さって、バタバタと気ぜわしい一日でした。先週ようびに送った見本が帰ってきて、すたっふMさんとの打ち合わせも重なってしまいました。月替わりの第一月曜日です。今月の仕事も季節と競争になりそうです。
夕方の5時には皆さんも帰られようやく轆轤に乗ることが出来ました。乾山陶器の続き、削り仕上げです。一日いちにちと乾山の事を考えているので、自分なりに乾山を捉え出して来ました。今週には一度窯に入れたいと思っています。明日は白化粧を作って器に掛けたいと考えています。今夜は化粧のイメージを作っていきます。資料を見て感じるところを点検していきます。当時の陶工達が、いかにセンスが良かったか、研究を重ねていくとよく分かります。京都に地方から腕のいい陶工が集まって、都の洗練された文化を吸収し、かなりの自信を持っていたのでしょう。意識の違いを感じます。古清水もそうですが、この陶工の自意識の強さがあって初めて出来た陶器だと感心しています。
私が今問題にしていることは、その意識の高さに私たちも同じように反応しているか、ということです。私はこの様に思っています。「乾山以上に乾山」を作ってみようと考えているのです。乾山窯の陶工たちが感心する陶器を作ってみたいと思っているのです。
京都五条の筆職人、稲本さんを訪ねて
こんばんは。寒さも峠が過ぎたのでしょうか、穏やかな日和の中、京都五条に出かけました。稲本さんの筆を買いに行くのが目的です。ここの筆でないと仕事にならないことが多く有ります。すたっふMさんが描いている世界は、ここの筆でないと出ない線が多く有って、実は昨年から稲本さんの状態が思わしくなく、筆を注文してもなかなか作ってもらえない事が続きました。今回もお電話を差し上げて状態をお聞きしてから出かけて参りました。身体に詳しい状態はここでは書けないのですが、今日はご機嫌もよく、遠いところからわざわざ来てもらったと、喜んでくださいました。こちらも鉄絵に合う筆を頂きたく、色々とお話しながら、これもあれも試して下さいとたくさんの筆を頂きました。ご厚意いつもありがたく思います。
少し筆のお話です。私はどちらかと言えば鉄絵を得意としています。色々な筆を使って描いてみたのですが、面白い調子がつかめませんでした。そこで稲本さん宅を訪ね、鉄絵で面白い筆はありませんか?20年以上前のお話ですが、ちょうど人間国宝にもなられたある作家からの依頼で、何とか合格を頂いた筆が一本余っているので、これを試してください、と手渡された筆があります。正当な職人世界から見るととんでもない筆なのでしょうが、その先生は何か面白いものが出来そうだと仰って、それを持って帰られました。その先生から何度も修正があって色々な手法で作ってみたが、素人に依頼し作らせた筆が一番よかったという話でした。それも、後で聞いた話ですが、面白いはなしだなあ!と関心しました。何を言っているのかと言えば、プロが作る筆は完成されていて、誰でも使えばある程度の線が描けるように作られているのです。しかし鉄絵などは素地と筆との葛藤があった方がすんなり書けない方が断然面白いのです。それを使いこなせるようになって誰もが描けない線が生まれてくるのです。思わぬ拍子に表現される線がいきいきとして生まれ出てくる。そんな事が期待されることで、作品に緊張感とユーモアーが生まれてくるのです。
20年前に頂いた筆もさんざん描かせてもらい、毛も寂しくなってきました。その筆はもう誰も作ることはできないというお話です。その時代その瞬間に出会う道具があって、その時代の作品も生まれてくるのです。この筆屋さんもなくなるとまた一つの時代が変わってしまうのでしょうか?工芸もまた生きづらい世の中ですね。
乾山陶器のはじめに
こんばんは。今日は気が付けば雪が降っていました。底冷えのする一日でした。この時期降る雪はどこか明るい感じがします。立春が過ぎ日の光に力があるのでしょうか。雪が華やいで見えます。
今日は一日工房で一人乾山陶器のあれこれを考えながら、轆轤を回していました。何から手を付けていこうか色々思いながら、文献資料を読んでいます。乾山について書かれた本は山ほどありますが、ここ最近窯跡調査が進み今まで謎めいた部分も多く解明されて来ました。昨年も「光琳、乾山展」が京都で開催されて私たちも行ってきました。昨年は光琳生誕三百周年記念とあって、東京国立博物館で「大琳派展」が催しされました。大変な賑わいだったそうです。日本人はどうもこの辺りの文化が好きなようですね。血に眠る郷愁ということでしょうか?四季の移ろいを見事に速写したような、今でいうビジュアル化した世界は私たちのこころの宝として、また世界でも類ない品格に溢れた作品が多くあります。秀吉の時代は終わっているのですが、といってもまだまだ日本は世界ナンバーワンの金、銀の産出国だったのですから、国の勢いというか、どこか力を感じます。
乾山はそんな時代から百年近く遅く、少し陰りが出てきた頃でしょうか。徳川幕府の政治色が濃くなって来て、王朝復古の華やいだ様相も影を潜めてきました。乾山の心中は如何なものだったのでしょうか?兄の光琳とは対照的で、乾山の地味でどこか隠遁感の強い世界が、侘びた風情の好きな人にはたまら無いでしょう。この対比を押さえておかないと、乾山陶器の見どころがぼけてしまいます。乾山の何を写すのか?一見稚拙に見える絵付けも、技術的に云えば高度な実験を繰り返し、独自の美の展開にまで発展させてきた結果だと考えています。
私はあまり結論を急がずにいようと思っています。一つずつ小さな作品でも納得のいくところまで考えて、また乾山と同じ実験を重ねてみたいと思っています。
春の嵐に十草の飯椀
こんばんは。春の嵐がやって来ました。今年は早いですねえ。こんな時期に一番が吹くなんて、どうなのでしょうか?山々の梅も咲き出しました。ちと感が狂ってきます。このまま一気に春になるのでしょうか?季節の変化とともに世間の情勢も変わり出してきた様です。いったん流れ出したものは大きな流れになるのも早いでしょう。急変しそうですが。
金曜日なので今日も公民館の陶芸クラブに出かけて来ました。嵐の中も遠いところからやって来て、熱心に作陶に励まれていました。物を作るのは楽しいですね。実際に形になっていくと、益々興味が湧いてきます。一人ではできないものでも、みんなと作っていると手助けも入りだんだん出来てきます。少々陶芸から外れていても、ま、いいんでしょう。そんなに早く理解できませんから。何か楽しいという感情が、優先されます。それでいいと思っています。
今日の工房は、すたっふMさんが十草飯碗の下書き分を持ってきました。Mさんは上絵の仕事が多いのですが、上絵はすでに焼きあげている器に描くので、Mさんの持っている錦窯で焼きますが、この御茶碗は呉須、鉄絵の下絵なので、工房で釉薬掛けをして本焼きをします。下絵や上絵と少しややこしいですね、いったいわれわれが作っている京焼は何回窯に入れて焼くのでしょうか。素焼きで一回、800度で焼きます。釉薬を付けて本焼きで二回、1200度以上で焼きます。普通はこれで完成なのですが、上絵という焼きあがった器に絵を施す技法は、またもう一度800度くらいで焼きます。
下絵具と上絵具は全く違うものです。下絵具は釉薬と反応して初めて色が出るのですが、上絵具は絵具自体が色を持っています。800度くらいで焼くとその絵具の色が出てくるのです。この絵具は大変湿気を嫌うので単独の窯で焼き付けます。これを錦窯といいます。
日本で上絵をした焼き物が最初に焼かれたのは京都だといわれていますが、伊万里焼だという説もあります。
ウォーキング秘話
こんばんは。二月に入って早いもので、一週間がたちました。二月は今年を占う意味でも大変重要な月と感じています。28日と短く慌ただしく日が過ぎて行きますが、しっかり詰めて仕事をして行きたいと思っています。
土曜日とあって山の工房にも突然の来客が続きました。思った様に仕事は進めてもらえません。実際計画通りに仕事を進めていける日がどの位あるでしょうか。ここでの生活は思った以上に雑用が多く、気持ちを制作のテンションに持って行くまでには、かなり素早く切り替えるコツを持っておかないといけません。私は朝のウォーキングで気持ちの切り替えをしています。45分位歩くのですが、20分位するとざわついた気持が一つギアーが入るというかテンションが変わります。落ち着いた気持ちが出てきます。自然の中、朝の光をいっぱい頂きながらただ歩いているだけで心が一つになって来ます。運動もかね、また精神衛生にもなって、私の大事な日課です。
古代ギリシャには「逍遥学派」といい歩きながら考える一派があったそうですが、また京都には西田幾太郎先生が歩かれた「哲学の小路」がある様に、歩くことと思考することとは大いに繋がっているように思います。日本の詩人もよく歩いています。西行然り、芭蕉然り、また山頭火然りと色々名前が上がって来ますが、歩くことで人は天啓の光に浴することが有るようです。軽いハイ状態になります。この気分が一日を決めてくてます。
朝のウォーキングから帰ってくると一日のスケジュールが体にピッシと入っている状態です。それがないとどこか頼りない感じがします。朝に歩くことができなくて昼、また夕方と歩いてみるのですが、どうも違う感覚なのですね。どうも朝のウォーキングに何かしら秘密がある様に思うのですが。
これからはもう少し早起きして、もっと朝の光を頂きたいと思っています。
「かろみ」の世界から
こんばんは。二月に入って来ました。春は名のみの風の寒さや、立春とは言え寒さが増して参ります。しかしこの時期を境に確実に春の足音が聞こえて来ます。工房は梅や桜が満開の様な仕事が続きます。私どもはどこか気持が春になっているのでしょうか。ウキウキとした気分で仕事を進めています。
土曜日に汲み出しの見本を水挽きしました。少々小ぶりですがふくよかさを残した形に納めるのに、良いラインを探っています。口径や深さの寸法は決まっているのですが、見込み、立ち上がり、口作り、のラインは無数にあります。特に轆轤で見込から立ち上がりのラインは、大変重要で器の善し悪しが決まるところです。一般に素人さんはこのラインが分からないのではないでしょうか。私たちは器の外の形状を見るのではなく、中の形状、特に見込を見てよく判断いたします。外と中とが違っている器は意外と多いです。不自然な重さを感じるのはそのせいです。私は轆轤に「かろみ」という言葉をよく使います。軽さを意味する言葉なのでしょうが、単に重い、軽い、を言っているのではなく、見込みの良さからくる、形の晴れやかさを言いたいのでしょう。京都の言葉なのでしょうか?はんなり、という優しい言葉があります。この言葉をたとえば東京に持って行って使おうと思っても、その風情が残念ながらないのです。それに似た意味合いで「かろみ」を私は使います。京都や奈良といった都びとが見た春の風情は、はんなりとかろみのある柔らかな光のなかに融け入る感覚なのでしょうか?その様な何の違和感もない自然とひとつになった世界を「かろみ」のいい轆轤、器と表現しています。
この部分が京焼の生命線なのでしょう。特に「古清水」と云われている焼き物を写すには、この世界を轆轤で挽き分けなくてはなりません。艶やかな絵付けが活きる為には、轆轤も一つになってなければなりません。私はあまりにも普通の事を言っているのですが、この形が出来るのには長い年月が必要のようです。
火の神様
こんばんは。昨夜はこの付近も雪が一気に降ってきて、あっと言う間に一面銀世界になってしまいなした。子供たちが明日の出勤で今のうちに車をどうにかしなければどうしても遅刻する訳にはいかないとかで、挙句にホテルに泊まるなんて話も出てきました。それほど瞬く間にずんずん積もったので、みんなも驚いたのでしょう。私の経験則からそんなに思うほど積もらないし、朝の道も凍るところまでいかないから大丈夫と思っていたのですが、案の定雪は小康状態になり、雨交じりで霙(みぞれ)となって、子供たちの心配も一段落致しました。しかし今日は冷蔵庫に居るようで、冷えは相当きついです。朝町に出てみると、嘘のように日が射してポカポカ陽気になっていました。別世界です。
工房は昨日焼き終えた素焼きを出し、釉薬掛けをしました。すたっふMさんもお手伝いに来てくれて、スムーズに窯詰めまで終えることが出来ました。明日は陶芸クラブの指導日なので、今夜は焼くのを止め、明日の夜に火を入れることにしました。今年の初窯になります。お神酒、榊をお供えして、今年の安全をお祈りいたします。
火の神様は静岡県の袋井、掛川の秋葉神社が有名で、私が弟子に入った森山焼のそばにありました。森山の窯場には秋葉神社のお札が貼られていました。東京の秋葉原はこの神社を拝む所だったと聞きましたが。江戸からこの神社の方角に向って礼拝したそうです。今はすっかりそんな事とは関係ない所になっていますが。昔はおくどさんで煮炊きをしたので、火の神様が身近に感じられていたのでしょう。京都はこうじんさん。また八坂神社のおけら参り。大晦日この火を持って帰って竈(へっついさん)に火を入れる、なんて今ではどう考えても想像できないでしょうが。私の幼い頃はまだまだ竈で煮炊きをしていましたので、案外町暮らしですがその様だったんです。
陶芸は火の芸術といわれるように、火は切っても切れない創造原子の一つです。これからはCO2削減とかなんとかで、窯焚きにも税金が課せられる様になるでしょうね。大きな窯ではますます焚けなくなってきます。電気窯ならCO2が出ないからいいのかも知れないですがねえ。想像が付きませんが、ますます火から遠い生活になってくるのでしょうね。火を囲む家族の姿は遠い過去で、全てはスイッチポンで温めることも焼くこともできる世の中です。余談ですが、「面白い」という語源は囲炉裏に家族が寄って色々なお話をしている様子から来たと聞きました。囲炉裏の火が顔を照らす姿が語源と聞きました。すっかり都会から闇もなくなりました、またそれと同時に火も生活から消えてしまうのかもしれませんね。陶器が人の暮らしに温かかさを感じさせるのは、きっと窯の火の余熱が残っているのかも知れませんね。
大阪市立東洋陶磁器美術館「浜田庄司展」へ
こんばんは。夜からまた雨が降り出しました。北の方では大雪の様子ですが、ここも夜中には雪に変わるのでしょうか。といってもそれほどの冷えが来ていないのですが。どうでしょうか。天気予報はどうも大げさな感じです。
今日は陶芸クラブの初稽古です。昼の部、夜の部のみなさんも元気に出て来て下さいました。クラブの最後は恒例の茶話会で、お正月の皆さんの楽しいお話を伺います。まだ、正月気分の抜けない方の居られるようで、明日伏見稲荷にお参りに行くということです。京都はきっと大雪でたいへんやでえ、なんてからかわれていました。
今日から大阪市立東洋陶磁器美術館で「浜田庄司展」が有るということを言われました。日曜日にでも行ってみようとおっしゃる方がおられました。どうも新聞に紹介されていたようで、神戸のコレクターの作品80点を紹介するという企画の様です。関西は案外民芸ファンが多く残っていて、今でも人気が高いです。万博公園には民芸館もあり、アサヒビールの大山崎美術館には多くの浜田先生の作品が展示されています。神戸にも多くのコレクターが居られるようで、この展示会もその方面の方のようです。何と云っても、民芸運動の推進者で有名な人は大原さんでしょう。私はまだ行く機会がないのですが、「大原美術館」は民芸運動の核となった大きな存在でした。
そもそも民芸とはいかなる運動だったのでしょうか?柳宗悦の唱える「民衆の芸術」。所謂名もなき工人の日日の用に即した工芸を指して、その美しさを発掘とともに創造するという運動のように思います。ここで「工芸」と言う言葉が出てきますが、今では皆さんも共通概念がありますが、この言葉は柳先生や浜田先生が、昭和のはじめに「工人の芸術」という概念で作った言葉です。しかしかれこれ80年も経つのでしょうか。私が陶芸を始めた頃は、工芸はまだ一つランクの下の芸術とされていました。明治の頃はもっとひどくて、第二芸術なんて言われていたのですから、時代を感じます。工芸は工芸で、芸術なんてものではないという、何か面白い自負があって、用に徹していないものを横目で見ていた感がありました。今はそんなことも言っていられないような危機に面していますが。
もう一度「用」を考えてみたいといつも思っています。浜田先生の作品は大らかな轆轤味が魅力で、卓越した技術は、明晰な作品を生み出しました。先生の理性の大きさを感じます。世界に通じる共通の言葉で、作品を当時作ったことは、それも益子という田舎の焼き物を土台になし得たということは、多くの工芸を志す者に大きな希望を与えたことでしょう。世界のあらゆる焼き物を地元の材料で作り変えていく中で、工芸の可能性を大きく開いていかれたように思います。
桂離宮と乾山考
こんばんは。今日は暖かな一日でした。一月五日は小寒で今日から寒の入りとなります。二十日が大寒で、二月四日の立春まで続きます。さて、今年の大阪方面は暖かな日が続いていますが、これからどの様になっていくのでしょう。
昨夜はNHK大河ドラマが大変な視聴率だったようで、私も実家で見てしまいました。上杉謙信の家臣の物語、天地人ですか。職業柄ついつい使われている焼きのもが目に入って、この時代にはこの焼き物はなかった、とか、この身分では使えないとか、要らぬところに目がいってしまいます。実は大河ドラマはさて置き、その後に放送された「桂離宮 知られざる月の館」のお話です。
桂離宮は誰もが知る日本文化の代表格です。庭園、お茶屋、書院からなるその全ては、月の桂と呼ばれ、月の名所であるここに最高の月を愛でるための装置を作った、とされています。柱一つ、襖のデザイン、違い棚の工夫、細かな細工の工芸品。庭に点在する置き石の数々。池に船を浮かべ歌を詠む。八条の宮家 智仁(とししと)親王(1579-1629)と続く智忠(としただ)親王(1619-62)が創設されました。御水尾上皇の桂御幸に際して各書院の増築が施され、現在の古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行する書院群はこの時以来のものです。上皇の御幸に際しては特別な思いれが有ったように思われます。
智忠親王の回りには、当時京都の画師、工芸家、歌人など一流の文化人が集っていた様です。我々のよく知る、光悦、宗達もそのグループに属していた様です。
桂離宮は一言でいえば、王朝復古、王朝ルネサンスの結晶の様にも映るのです。当時武家社会が台頭し圧倒的な軍事支配のもと、京都の貴族社会は管理されていきました。二条城に軍事政権がおかれ、貴族の動向の管理がされて行きます。そんな中、自分たちこそが日本の文化の中心、伝統であるという、強い意志があったのだと思います。
桂離宮で使われた数々の優れたデザインは、いみじくも乾山陶器にも転用されたものが多くあります。市松紋様の襖は、乾山は四方深向こうにこの紋様を用いています。桐の型紙紋様もまたその一つで、離宮に本歌がある様に思いました。
どうも桂離宮は王朝ルネサンスの象徴的存在として、後の人たちに大きな意味を持たせた存在のように思えてきました。自分たちの帰る世界、また大きな自負と卓越した日本のデザイン性に、自分たちの進む方向性を感じていたのではなかと思われてきました。
雅という符号
工房はぶりぶり香合の続きですが、昨日削り仕上げした物が乾いてきました。やはり歪みが出てきました。口の面がうまく合わないので、思案しています。一旦乾かしきってから修正をかけるのでしょうが、生の状態で身と蓋を合わせても、焼くとまた違った歪みが生じるでしょう。肉厚が問題になるのでしょうか。色んな角度から検討していかなくてはならない仕事です。じっくり腰を据えて研究いたします。
この様な小物でも、仁清陶器はどの様に作ったのだろうかと深く考えさせられる作品が多く有ります。一つの作品に仁清は一ひねりも二ひねりもしてくるので、単純にかかって行くと大きな落とし穴があります。これは古清水も言えることですし、乾山にも言えることです。他の窯業地にはあまり見られない独特の仕掛けが色々と施されています。やはり都の持つニュアンスの複雑さ、掛け言葉などで飛躍させるイメージなど、一筋縄ではない、手の込んだ仕掛けが散りばめられています。
京都の持つ独特の文化が仁清陶器に色濃く仕組まれていて、そこを読み解きながら進めていく仕事だと、痛感しています。奥が深いというのはそのことを全て含めて、理解が必要だと感じています。やっと、その入口の存在に気づいたという段階で、まだまだ鳥羽口にも立てていない状態を感じています。
しかし、一歩一歩ダビンチコードではないけれど京都という雅という暗号めいた世界を解き進んで行きたいと思います。
仁清と乾山
乾山はあまり雑器を作った形跡はありませんが、それはなんせ莫大な財産を受け継いだのですからその必要性がなかったのでしょう、仁清は色々と雑器を作っています。後世に残る茶壺や茶入れ、抹茶碗に香合、水差しなどは公家、大名、寺社からの注文品で、普段は雑器に属するような器を作っていたと思われます。
仁清にしてもまた乾山にしても一人では到底窯の維持はできなかったので使用人を何名か使っていました。仁清はもともと轆轤の達者な方で、茶入れなどを見ると実に柔らかなまた美しい独特の優美なラインで作られています。京の雅さが十分伝わる傑作も多くあります。
一昨年京都国立博物館で開催された「京焼展」には仁清をはじめ、乾山、粟田焼等の古清水、近世の名工、木米、頴川、仁阿彌、永楽等々が出展されて大変見ごたえのある、面白い展示会でした。その中でも一番広く展示コーナーを設けて仁清の多くの有名かつ国宝の品々が展示されていました。
これは私の見解ですので根拠のある話では今のところないのですが、敢えて言うと仁清作とされているものの中にはすべてとは言わないまでも、例えば茶壺、また小物の香合などは専門に作る窯があって仁清はそこに注文をしていたのではないだろうか、と思うのです。確かに茶入れ、抹茶碗、香炉などは仁清自らの轆轤とみられるものが多いのですが、どうも総合的に考えても一人の手に負える様な作品の数と質ではないように思います。
仁和寺の金森宗和との関係も、全て仁清が手掛けたというよりも、近在の窯屋に得意な物を振り分けていたのではないかと私は思っています。
いわば総合プロデュース的な存在も兼ねていたと考えると、あの質と量が納得できるのですが。
そういう目で先の展覧会を見てみると新しい仁清像が浮かび上がって来ました。そしてその後の京焼きの基礎も仁清の当時のプロデュースでかなり出来上がっていたのではないでしょうか。古清水と称される多くの窯もその範疇の外に出ることはなかったように思われます。
仁清を深く味わっていく中で多くの発見が生まれてきました。機会をみて、魯山人の仁清を見ていた眼についても考えてみたいと思います。
登り窯と乾山
日本で本格的に食器を個人作家として作ったのは、乾山でしょう。もちろん瀬戸や唐津の窯業地では多くの食器を作っていました。が、懐石料理の器をデザインから製造したとなると、乾山が初めてでしょう。
日本で陶器の食器が一般的に使われ出したのは窯の大きな変革があったからです。織部という焼き物がありますが、カラフルで多くの技法が盛りもまれ、懐石や茶事によく使われています。この焼き物は今までの穴窯から登り窯に代ってできた焼き物です。登り窯は九州唐津あたりで発明された日本独特の窯です。この窯は大変熱効率が高く、また大量に焼くことが出来きます。それまでは山の斜面を掘って階段状に傾斜を付け蒲鉾の形に屋根を土で覆って窯を作っていました。半地下式穴窯などと云いますが、通称「蛇窯」などとも呼ばれています。それが全室を地上に上げ各部屋を独立させ、サマと言う連結坑で繋いだ窯が発明されました。それが皆さんのいう「登り窯」です。 この窯が出来て初めて大量にまた安価に焼き物が出来るようになりました。九州から瀬戸に伝搬され、各地方で特色のある焼き物が大量に作られ、出回りだしました。江戸では瀬戸物、また京都、大阪では唐津物といわれ雑器の代名詞のようにもなりました。 この窯が仁清によって瀬戸赤津から京都にもたらされました。仁清の陶技を継いだ乾山もまた鳴滝泉谷山にコンパクトな登り窯をつくり、多くの美しい焼き物を作りだしました。
乾山陶器への挑戦
乾山写しは京都に行けばゴロゴロ山ほど出会うでしょう。今更なんで?ともお思いでしょうが、実は自分は焼き物を始めたときからいずれは乾山をという思いはしきりに持っていました。
五十を過ぎ、この頃は今まで経験した事が少しづつ発酵して来た思いがあります。やはりこの時期まで時間が必要だったのでしょうか。そんな事を思いながらようびの真木さんに背中を押されて、この3年間心に思っていた土を300キロ京都の土屋さんに作ってもらいました。
最低300キロがワンロットなので、まあ、最低のロットで購入いたしました。オリジナルの土です。この土で一本柱を立てることにしました。
かなり時間を掛けて考えた結果です。色々な展開が出来ると思います。鉄絵、呉須絵、色絵、化粧土の改良が急務の課題ですが、アイデアは面白いものが有ります。
はじめは簡単な雑器に鉄絵をしてみようと思っています。皿、鉢、湯飲み、飯茶碗。
HPに出しますので見てください。良かったら買ってください。
「都ぶり」という言葉を使って乾山陶器に迫っていこうと思います。元禄時代の都の、今で云う空気感がどの様であったか?チーム乾山が技術を駆使して新しい表現に挑戦していった作品が、いかに都の人々の美意識を駆り立ってていったか、今に通じる面白さが十分に汲みとれるのですが。
2008年6月の焼き上げ作品
初夏の色と言えば、なんと言っても青でしょう。古来日本でいう青は今でいう緑になりますが、ここでも青もみじといい、緑を使っています。
京都八瀬の比叡山登り口近辺はこんもりと高野川を覆うようにもみじの木々が生い茂っています。
7月、蝉しぐれの中、鮎の釣り人がもみじの木漏れ日にすっかり青く染まる風景を思いおこしました。
色絵青もみじ紋鉢
ようびさんの6月の予約販売の作品です。二年程前からの作品ですので、この季節定番になってきました。
ごま豆腐が入って大変おいしそうに盛って頂いたそうです。
京焼き杜若四方
六月の季節に合う四方小皿、杜若紋が焼き上がりました。大胆に杜若を描き込んでみました。四寸に満たない小皿に空間を大きくとり梅雨の空を写しとりました。燕が飛んでいるのが見えるでしょうか?
二〇枚焼きあげる事が出来ました。昨年から多くの杜若を題材に作品にしてきました。シリーズ四方皿にも一点付け加えることが出来ました。
京焼き扶養紋四方皿
季節は進みます。
瓢箪とかぶるかも知れませんが芙蓉を描いてみました。
まだ夏の日差しの残る中、どこからかふっと吹く風に秋を感じた時芙蓉がふわふわと揺れている情景に季節が変わったことを感じ、夏が過去に変わった寂しさを覚えたことがありました。
瓢箪、おもだか、から始まった四方小皿の季節シリーズはこれで菊、椿、桜、藤、杜若、芙蓉と八枚が揃って来ました。一二枚まで揃えたいと思っています。さて、何を描きましょうか。アイデアを募集いたします。(笑)
乾山展に行ってきました。
京都文化博物館の「乾山の芸術と光琳」展を観て来ました。
緒方乾山が京都 仁和寺の奥、鳴滝泉谷に窯を築いたのは、元禄10年(1699)のことです。昭和初期にその窯跡が発見されて以来、正式な発掘調査はされることはなく全容は長く謎のままでした。
平成12年(2000)に発掘調査団が結成され、5年間に及ぶ科学的調査がされ、結果予想をはるかに上回る種類の遺物が採取されたそうです。
今回の展示はその成果を踏まえ、新しく浮かび上がってきた「乾山焼」を提示する事が目的だそうです。
私は今回のこの展示会で色々な疑問が少しつですが分かってきました。展示会場にかなりの数の陶片が置かれてありました。また、乾山が使用したとされる窯が再現され、また焼成のビデオも流されていました。大変興味深いものでした。
乾山陶器のナイーブなマチュールやディティールがどの様にして出てくるのかが垣間見れたように思いました。
最高の文化ネットワークを持ち、陶画一等の世界に果敢に挑戦していった芸術エネルギーを、こんなにも香雅で日本の美を余すところなく表現出来た陶芸は奇跡のようにも思えるのでした。
驚くほどに小さい窯(錦窯)で丹念に焼上げたのでしょう。それは焼物という物ではなく、土の造形を借りてそこに絵画を転写した立体絵画の様にも思えるのでした。
用から離れても書、絵画を重んじそれを楽しんで受け入れていく土壌があったればこそだと痛感しました。
日本古来の伝統文化に新しい花が咲いた瞬間を見たようにも思えました。
三条川端から西に、久し振りに歩いてきました。さすが京都です、多くの着物をめした女性を目にしました。少し花冷えの一日でした。