こんばんは。イエス・キリストの誕生日と云われている聖なる日。皆様如何お過ごしでしょうか?以前は京都の修道院に足しげく通っていたので、この日はイブの日から泊まり掛けで、祈りに満ちた時間を頂いていました。聖歌を歌い、お説教を頂き、聖火点燈の儀式に参列して、クリスマスを迎えていました。旧約聖書にアシュアの木のお話がありますが、耐え忍ぶ教えが象徴として書かれていた様に思います。昨日もお話いたしました様に、時代は大きな転換期を迎えました。人類が進歩するにはどうしても通過しなければならない、痛み多い世界がこれから始まるでしょう。イエスが耐え忍んだように、私たちもこの産みの苦しみに耐え忍ぶ力を、クリスマスのこの日イエス・キリストにお祈りしなければならないでしょう。
地球は愛の星と云われています。愛を体験するために私たちはこの星に、自ら望んで生まれてきたと言われています。だから私たちには愛の結晶が心の中に埋め込まれているといわれています。
仏教に法華経という経典がありますが、この中に衣裏繋珠(えりけじゅ)の譬えがあります。仲のよい二人の友達がいました。一方の友達が彼の元を去って遠国に旅立つ際、彼は友達の衣の裏に、密に高価な宝石を縫い込んでおきました。こうしておけば友が愈々困った時に役に立つだろうと思ったのです。長い年月が過ぎ、乞食の様に落魄した友が故郷に帰って来ました。友達は、衣の裏に大変高価な宝が縫い込んであるとは露知りませんでした。そこで、彼はその友に「あなたは宝を持って乞食になり、諸国を流浪していたのです。」と教えて上げた。というお話です。
この譬えはイエスの聖霊を暗示しています。聖霊は愛と云われています。私たちはこのお話のように「愛の打ち出の小槌」を持って、人生の旅をしているのです。その気づきをクリスマスに発見する意味は深いと感じます。
人類はたった一つの言葉で繋がり、一体になることが出来ます。キリストの愛、聖も濁もない一つの愛。聖なる夜、静かな祈りの時間が過ぎて行きます。
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