こんばんは。今日は暖かな一日でした。一月五日は小寒で今日から寒の入りとなります。二十日が大寒で、二月四日の立春まで続きます。さて、今年の大阪方面は暖かな日が続いていますが、これからどの様になっていくのでしょう。
昨夜はNHK大河ドラマが大変な視聴率だったようで、私も実家で見てしまいました。上杉謙信の家臣の物語、天地人ですか。職業柄ついつい使われている焼きのもが目に入って、この時代にはこの焼き物はなかった、とか、この身分では使えないとか、要らぬところに目がいってしまいます。実は大河ドラマはさて置き、その後に放送された「桂離宮 知られざる月の館」のお話です。
桂離宮は誰もが知る日本文化の代表格です。庭園、お茶屋、書院からなるその全ては、月の桂と呼ばれ、月の名所であるここに最高の月を愛でるための装置を作った、とされています。柱一つ、襖のデザイン、違い棚の工夫、細かな細工の工芸品。庭に点在する置き石の数々。池に船を浮かべ歌を詠む。八条の宮家 智仁(とししと)親王(1579-1629)と続く智忠(としただ)親王(1619-62)が創設されました。御水尾上皇の桂御幸に際して各書院の増築が施され、現在の古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行する書院群はこの時以来のものです。上皇の御幸に際しては特別な思いれが有ったように思われます。
智忠親王の回りには、当時京都の画師、工芸家、歌人など一流の文化人が集っていた様です。我々のよく知る、光悦、宗達もそのグループに属していた様です。
桂離宮は一言でいえば、王朝復古、王朝ルネサンスの結晶の様にも映るのです。当時武家社会が台頭し圧倒的な軍事支配のもと、京都の貴族社会は管理されていきました。二条城に軍事政権がおかれ、貴族の動向の管理がされて行きます。そんな中、自分たちこそが日本の文化の中心、伝統であるという、強い意志があったのだと思います。
桂離宮で使われた数々の優れたデザインは、いみじくも乾山陶器にも転用されたものが多くあります。市松紋様の襖は、乾山は四方深向こうにこの紋様を用いています。桐の型紙紋様もまたその一つで、離宮に本歌がある様に思いました。
どうも桂離宮は王朝ルネサンスの象徴的存在として、後の人たちに大きな意味を持たせた存在のように思えてきました。自分たちの帰る世界、また大きな自負と卓越した日本のデザイン性に、自分たちの進む方向性を感じていたのではなかと思われてきました。
この記事の関連キーワード